| 米持孝秋氏のチタンサドルレビュー |
冒頭からいきなり私事で恐縮だが、2000年にヨーロッパ12カ国で4枚目のアルバム「リヴァー・ザ・ライフ」がリリース(2003年暮れやっと国内発売)されたエア・パヴィリオンは2004年やっと重い腰を上げて5枚目のアルバムのプリ・プロダクションに突入した。前作がコンセプト・アルバムであまりにも楽曲の仕上がりにこだわったため、本来サウンドの基盤になるはずのギターの活躍が最小限であり一部のメディアからは随分たたかれた。まあだからと言ったわけではないが、次作はエア・パヴィリオン初のギター・アルバムにしようと今から虎視眈々と狙っている(笑)。まあ、こればかりは本番のレコーディングが終わるまでどうなるかは本当にわからないのであるが。今回ギター・アルバムを作ろうと思っているその背景には、この歳になって初めて普通のギターを弾き始め、それらがいたく気に入っているからに他ならない。 思えば20代半ばで初めてスルーネックのカスタム・ギター(初めてのスルーネックはファイン・チューナーの無いフロイド・ローズをマウントしたVestaxのカスタム・ギターで、当時RATTのウォーレン・デ・マルティーニがジャパン・ツアーのサブ・ギターに持っていた位の完成度を誇った)を手にしてからと言うもの15年以上スルーネックにこだわり、そのサウンドを探求してきたが「リヴァー・ザ・ライフ」において世界で最も音質にこだわったスルーネック・サウンドを残すことが出来たので、この件に関して一応私の中では研究終了という感じである。だが長い間ドーピング癖の染みついた身体がノーマルのストラト、テレキャスターと言ったがギターを受け入れるのには本当に多くの勇気と時間を必要としたのも事実である。 しかしそのきっかけはある日突然やってきた。私がプロデュースを担当する若いバンドのメンバー達がストラトはオヤジのギターで、若者はみんなテレキャスターが好き、などとのたまうので、問いつめてみると「エリック・クラプトン、といいリッチー・ブラックモアといみんなおじいさん。ストラトの名手と言われている人達はみんなオヤジ」などとぬかすではないか。失礼極まりない発言だと思ったが彼ら(20代前半)にしてみれば、物心着いた頃にクラプトンもブラックモアも既に若者ではなかったわけで、妙に納得させられた。で、レディオヘッドにしろベック(ジェフ・ベックではありません、あしからず)にしろみんなテレキャスターだそうなのだ。そして私はとある楽器屋さんの店頭でピンク・ペイズリーのテレキャスターと出会ってしまった。いわゆるビンテージにはまったく興味のないのでそのフェンダー・ジャパン製のテレをその場で衝動買いした。これまで50本ほどのギターを所有していた時期でもフェンダーはマスタングだけ、そしてギブソンはSGだけという超偏ったコレクションだったので、もちろんテレはギター歴20余念にして初体験であった。スタジオに持ち帰っていつもレコーディングで使用しているボーグナーに突っ込んだところ、その線の太さに驚かされた。後日PUをディマジオのトーン・ゾーンに交換し現在もメイン・ギターの一本として大活躍している。 さて、さて本当に前置きが長くなってしまったが、初めてのテレで味を占めたのでいよいよ30年ぶりにストラトに挑戦してみたくなった。思えば15歳の春、「形だけリッチー・ブラックモアが出来れば良い!」と思って買い求めたサンバーストのグレコ・ストラト以来ストラトをきちんと弾いたことが無かったのである。そこで前回と同じ楽器屋さんの店頭で傷物として赤札の掛かっていたフェンダー・ジャパンをまたしても衝動買いしてしまった。で、実はこのストラト前回のテレ同様、妙なフィニッシュが施されていて(白の中から紫が浮き上がってくる)そこが大いに気に入ってしまったのである。しかし、しかしこのギターをメインで使い始めるとこれまで考えもしなかった多くの悩みを投げかけてくれたのである。 まずは最初のトラブルはサウンド面の線の細さである。まあこれは上記の通りドーピングに慣れた耳には普通のギターでは何をしても物足りなく感じるのである。そこでまずPUをテレと同じくトーン・ゾーンに交換し、それでも足りないゲインはEx・proのプリ・アンプX-1で補うことにした。特にライヴでワイヤレスを使うとコンプレッションを得る代わりにゲインが激減するため、このプリ・アンプの使用はマストになってしまった。この状態で約2ヶ月ストラトに関する多くのデータを収集しアンプ側のチューニングを施したが、少しずつ良くなるサウンドに相反して致命的な欠陥が露わになってきた。弦が切れるのである。長く愛用してきたフロイド・ローズでは元々弦を切ってマウントするため、レコーディング中やライヴの最中に弦が切れると言うことは極めて希であった。曲がりなりにもプロでギターを弾いているのだから、弦に掛かるニュアンスや負担などは「人生を賭けて」コントロールしているわけであり、普通の人のギターの弦が切れるのとはまったく別の次元の話しをしているわけである。私はストラトのブリッジを取り外し、紙ヤスリやら自動車用のコンパウンドやらを用いて鏡面処理を施してみた。しかし残念ながら思うような結果は得られなかった。 困り果てたある日世界中のギター・サイトを巡り歩いていたときにK.T.S.TitaniumSectionのHPと出会った。何と言ってもブリッジにブラスや鉄の代わりにチタンを使っているそうで、どんな音がするのかワクワクした。なにも世界中探さなくても我が国にこうやって困り果てたギタリストを助けてくれる会社があるのかと感激に浸りながらHPを読みあさっていくと、友人の一人である元ウインガーのレブ・ビーチが既に使っているとのことで、早速使ってみることにした。ストラトにマウントしてまず驚いたのはピッキング・レスポンスの早さである。ピックが弦に当たってから発音するまでの時間がストックのブリッジと比較して恐ろしく速い。どれ位速いかは言葉で表現するのが難しいが、ギター全体から見たら本当に些細なパーツであるブリッジの駒を代えるだけでまるで別のギターになる。あえて言葉で表現するならばピッキングしてから発音まで最も時間を要するレスポールが、突然最もピッキング・レスポンスの早いヴァレー・アーツのストラトに替わった感じだろうか。しかしこれは一定の力でピッキングすることが難しい初心者にとってはつらいことかも知れない。その昔バルトリーニのPUの事を「ギタリストに練習を強要するPU」と評した名ギター・ビルダーがいたが、チタン・ブリッジもそう評価できるかも。まあ、言葉を換えればそれだけニュアンスを表現できるギターに変身すると言うことでもあるのだが。 サウンド面でも大きな変化がもたらされた。ディストーション、大音量で弾いたときにも各弦の音がきちんと聞こえる。例えば5弦と6弦でリフを弾いたときにも各弦にピックが当たる音を聴き分ける事が可能になった。ちなみにここではライヴ用のメイン・アンプである1989年製のソルダーノSLO-100を使用した。具体的な音質の特長に関しては好みが別れるのかも知れないが、上記のようにレスポンスと解像度が上がったことにより、ギター・アンプで言うところのプレゼンスの領域にこれまでと異なるピークが確認出来た。そして同時に、ミッド・ローの領域にもこれまでとは異なるピークが確認出来た。プレゼンスのピークはカッティングを中心にプレイする場合に良い効果を生み出すし(いやならばただプレゼンスを下げればよい)、我々のようなロック屋にはミッド・ローの新しいピークはとても美味しいと感じられるはずである。 最後に私の悩みの種であった弦切れも程良く解消されており、またどんなにライヴで汗をかいてもびくともしないチタン・ブリッジは21世紀のギター革命なのかも知れない。私は先にPUを交換してしまったが自分のギターに不満がある場合、先にブリッジを見直しその特性に合わせてPUを選ぶのが筋かも知れない。今PU交換を考えているあなた、ブリッジは大丈夫ですか? 今後はペイズリーのテレにもチタン・ブリッジをマウントしてみようと思っている。そのレポートはまた後日としよう。 |
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2004年9月2日
米持孝秋
Tak Yonemochi/ Air Pavilion |
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Profile 米持孝秋(よねもちたかあき) aka: Tak Yonemochi 1958年10月10日生まれ レコード・プロデューサー、ギタリスト 小学生時代は父親の仕事の都合で北は札幌、南は小倉までを転々とする。その後1969年に家族で渡米、ロスアンゼルスにて小中学校に通う。1970年秋、自分の小遣いを大切にためて入手した香港製のFMラジオ(とんでもない安物)でレッド・ツェッペリンを体験、その後の人生すべてをこれに賭けてみようと即断、今日に至る。 今日に至る。 |
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1981年 獨協大学外国語学部英語学科を卒業後、(株)新興楽譜出版社(現シンコー・ミュージック)に入社。国際部に配属、その後雑誌RIOの編集者として米、英、仏、独を転々とする日々。 1984年 秋、独立。エア・パヴィリオン・ミュージックを設立。 1986年 FM静岡(現K-Mix)においてTak's Heavy Metal Lectureでラジオ・デビュー、以降数多くの番組に出演。(NHK-FM, bay-fm, FM Fuji, Nack5 etc.) 1989年 NHK BS "MUSIC BOX"のメイン・キャスター及びプロデューサーとして参加(これを皮切りに色々な音楽番組のキャスターを勤める、Space Shower TV, TBS Catch-Up etc.)。 同年7月 自らのバンド、エア・パヴィリオンとしてキング・レコードよりアルバム"カッティング・エア"でメジャー・デビュー。 1990年 セカンド・アルバム"海賊"(サントラ)をポリドールよりリリース3万枚を越えるセールス。 1993年 三つ編みでテレビに出ることを疑問に感じ始め(笑)、アメリカに渡りエア・パヴィリオンの活動を本格化させる。同年ロスアンゼルスにて現メンバーのオーディションを行い、ケリー・ハンセン、ジェイ・シェレン、トム・クルーシェ等を加入させ、元ドッケン、RATTのフォアン・クルーシェ、プロデュースのもとサード・アルバム"サラフ・コフ"を完成させる。 1994年 東芝EMIより"サラフ・コフ"日本発売。同年アメリカのLA Music Award 94にて同アルバムが"プロデューサー・オブ・ザ・イヤー"を受賞。コネッチカットに拠点を置く大手マネージメント"Lewis Entertainment Inc"とアーティスト契約(他にイングヴェイ・マルムスティーン、アル・ディメオラ等が在籍、現在はアメリカCroucier Production Inc.に所属)。 1996年 世界初、インタラクティヴ・ロック・ギターCD-ROM "GECRS"(ジェクレス)発売。 1998年 前作と同じメンバーでフォース・アルバム"The River/The Life"を制作。ゲストに故ロビン・クロスビー(元RATT)を迎えてDVD用の撮影も行われた。 2000年 " The River/ The Life" イタリアのAtrheia / Edelを通じてヨーロッパ全土で発売。各国、各種メディアに取り上げられる。 2001年 ドン・ドッケン、フィル・ルイス(LA Guns)らを迎えてアニメーションのサントラを制作。 2002年 自らの活動に加え、音楽サイト及び新人のプロデュースも手がける。 2003年 フォース・アルバム"リヴァー・ザ・ライフ"Addiction Recordsより日本発売。 |